19世紀フランス美術


ナショナルギャラリーでは日本人にもなじみのあるモネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ドガ、ミレーなど印象派と後期印象派の作品がとても充実していて見応えたっぷりです。全ては紹介しきれませんが、その一部を紹介します。

モネ「ルーアン大聖堂」「パラソルと女性ーモネ夫人と息子」

印象派の巨匠クロード・モネの後年の作品に特徴的なのは、連作という形式です。モネは「ルーアン大聖堂」だけでも30以上の作品を残しています。これについてモネは「大聖堂に惹かれたわけではなく、時間とともに変化していくその場の雰囲気に取り付かれたのだ」と語っているそうです。ナショナルギャラリーに展示されている2つの「ルーアン大聖堂」もその連作の1つです。移り行く時間と光の変化によってできる、大聖堂の微妙に違った表情がカンバスに美しく表現されています。
展示場は「87」です。

Rousen Cathedral
Rousen Cathedral Sunlight左が「Rousen Cathedral」右が「Rousen Cathedral Sunlight」です。

また展示場「85」にもモネの作品の代表作の1つ「パラソルと女性ーモネ夫人と息子」が展示されています。風景画のモネが描く貴重な人物画で、モネが当時滞在していたパリ北西ヴァル=ドワーズ県の街アルジャントゥイユの草原に当時の妻であるカミーユ・ドンシューが日傘を持って立ち、その傍らに当時5歳だった長男ジャンが寄添う様子をモデルに制作されています。愛する妻と息子が振り向いている幸せいっぱいの様子をとらえた作品だとされています。しかし愛するカミーユはこの絵が描かれてから4年後、32歳の若さにして亡くなりました。

パラソルと女性ーモネ夫人と息子パラソルと女性ーモネ夫人と息子 (Woman with a Parasol-Madame Monet and her Son) 1875
モネが描いた「日傘をさす女性」の絵は3枚あるとされています。残りの2枚はフランスのオルセー美術館にあります。この2枚は愛する妻カミーユが亡くなってから7年後、再婚相手の連れ子がモデルをつとめましたが、逆光と風で顔はよく見えないように描かれています。

「人物も風景の一部としてとらえていたから詳細に表情を描いていない」との説がある一方で、カミーユの面影を追っていたモネは、顔をわざと描かなかった、もしくは描けなかったとの説もあります。ナショナルギャラリーにある「日傘の女性」の顔立ちはわかるように描かれていますので、やはり、妻を失った後は顔を描けなかったのではとの解説に納得してしまいますね。

この他にも展示場「85」にはいくつもモネ作品がありますのでご紹介します。

モネの「Japanese Footbridge」モネの「睡蓮の池と日本の橋(=The Japanese Footbridge)」1899
「光の画家」と呼ばれたモネは、上記の「ルーアン大聖堂」のように同じ題材を異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作していますが、もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが「睡蓮」の連作です。ナショナルギャラリーにある「睡蓮」はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池とその上に自らが浮世絵からヒントを得て作らせた日本風の太鼓橋を題材に描かれた「睡蓮の池と日本の橋」です。とても奇麗な色彩で見ているだけで時間が経つのを忘れてしまいそうです。

モネ「Banks of the Seine, Vetheuil」モネの「Banks of the Seine, Vetheuil」1880
「Artists Garden at Vetheuil」モネの「Artists Garden at Vetheuil」1880

ゴーギャン「ファタタ・ミティ」

後期印象派を代表するポール・ゴーギャンは、1888年に南仏アルルでフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活を試みましたが、2人は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」で共同生活はたった2ヶ月で破綻。その後、ゴーギャンは楽園を求めてタヒチへと旅立ちました。健康状態の悪化や経済的困窮のために一度帰国しましたが、1895年に再びタヒチに渡った後は54歳で亡くなるまでタヒチへ留まり次々と作品を生み出しました。

そうした作品のうちの1つ、タヒチを鮮やかに描いた「ファタタ・テ・ミティ」はナショナルギャラリーでは必見です。

展示場「83」にあります。

ゴーギャン「ファタタ・テ・ミティ」ゴーギャン「ファタタ・テ・ミティ (Fatata te Miti)」1892
その他にも同じ展示場内にゴーギャンの作品がいくつかありますのでご紹介します。

ゴーギャン「Words of the Devil」
ゴーギャン「自画像 」左が「Words of the Devil」1892、右が「自画像 (Self Portrait)」1889

ゴーギャンが絵に興味を持ち始めたのは23歳のころ、そして本格的に絵を始めたのは35歳の時です。それまでは船員や株式仲買人等で生計を立て、結婚もし子どもも生まれ、普通に人生を送っていました。仕事が失敗したこともあり、趣味として始めていた絵の世界にのめりこみ、画家として生計を立てることを決意。しかし絵は売れずに生活は困窮し、妻は子供を連れて出て行ってしまったそうです。

その後、楽園だと夢見て渡ったタヒチでも生活が困窮し、心臓病と梅毒により健康状態も悪化、妻とも不仲で自殺を試みたものの失敗しました。

生前は同世代の画家からも認められず、不遇な生活をしていたゴーギャン。そんな自らを描いた「自画像」ですが一体どんな思いで描いたのでしょうか。ゴーギャンは死後になってその作品の価値が見いだされた作家です。そんなゴーギャンに思いを馳せながら絵を楽しんでみて下さい♪

ゴーギャン「Delectable Waters」ゴーギャンの「Delectable Waters」1898
ゴーギャン「Bathers」ゴーギャンの「Bathers」1897

ルノワール「オデリスク」「じょうろを持つ少女」

フランス印象派を代表する巨匠ピエール・オーギュスト・ルノワールは仕立て屋の6男として労働階級に生まれ、決して裕福とは言えない家庭環境で育ちました。

小さい頃から絵の才能を見せていたルノワールは13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いになりましたが、産業革命による機械化などで職人としての職を失ってからは画家になることを決心。1862年、21歳の頃に官立美術学校に入り、絵の勉強を本格的に開始しました。

ナショナルギャラリーに納められているルノワールの作品のうちの1つ「オデリスク」は1870年のサロンに出品され入選した作品で、当時の恋人だったリーズ・トレオをモデルにオスマン帝国スルタンの後宮で仕えた女官「オダリスク」を描いたものです。当時好まれていた「オリエンタリズム(東方風)」のアプローチで制作されていて、ナショナルギャラリーでも「オリエンタリズム」のセクションの展示場「81」に展示されています。

ルノワールの「オダリスク」ルノワールの「オダリスク (Odalisque)」1870
初期の頃はサロンに作品を出品しても当選や落選を繰り返し、生活が貧窮していたルノワールはもっと絵が売れるようにと願って「光でいっぱいのチャーミングな女性や子供の絵を描き始めた」と言うことで、この「じょうろを持つ少女」もそうした点から、当時ルノワールが交流のあったモネの庭で描かれたとされています。

展示場「85」にあります。

ルノワールの「じょうろを持つ少女」ルノワールの「じょうろを持つ少女 (A Girl with a Watering Can)」1876
ルノワールは風景画や花の絵なども制作しましたが、女性像、少女像、裸婦像など代表作は人物像です。そんなルノワールも1880年代前半頃から、印象派の技法に疑問を持ち始め、1881年のイタリア旅行でラファエッロらの古典に触れてからはそれが顕著となって行きました。その頃に描かれたものは堅く冷たい色調のものが多いとされていますが、1885年の「Girl with a Hoop」もそんな時に描かれた作品です。「じょうろを持つ少女」と比べると少し暗くて堅いような表情が読み取れますよね。

展示場「85」にあります。

ルノワールの「Girl with a Hoop」ルノワールの「Girl with a Hoop」1885
1888年頃からはリューマチ性関節炎や顔面神経痛に悩まされ、晩年は車椅子生活を余儀なくされたルノワールですが、痛みに耐えながらも死ぬ間際まで意欲的に制作を続けました。亡くなったのは78歳の時です。

ちなみにルノワールの作品の中でも有名な大作「舟遊びの人々の昼食」は同じくDC内にあるフリップスコレクションにありますので、そちらにも是非足を伸ばして下さいね。

ゴッホ「ラ・ムスメ」「自画像」

オランダ出身で後期印象派の代表的な画家であるゴッホの絵は1990年に「医師ガシェの肖像」が8250万ドルの高値で売れたことなどが話題になりましたが、生前、売れたのは「赤い葡萄畑」と言う作品1つだけ。しかも友人の姉がたった400フランで購入してくれただけでした。

弟テオからの毎月の仕送りで生活し、絵も売れないため生活はいつも困窮していたゴッホはゴーギャンとの共同生活の末、自らの耳を切る事件を起こすなど常軌を逸した行動でも知られ、何度も起きる持病の発作で精神病院にも入院し、結局37歳の若さで死亡しました。死亡の理由はピストル自殺。ただすぐには死に切れず、2日間苦しんだ後に絶命するなど最後まで苦しみが続く人生だったとも言えるかもしれません。(※死亡の理由については近所の子供が誤ってゴッホを銃で撃ってしまったのをゴッホがかばったとの説もあります。)

今では「狂気の天才」とも称されるゴッホですが主要作品の多くは1886年以降にフランスに住んでいた頃、特にアルル時代とサン・レミの精神病院での療養時代に、時には1日1作以上と言うハイペースで制作されました。

ゴッホは当時の画家たちと同じように日本の浮世絵などにも影響を受け、日本の歌川広重の作品を油絵で摸写したりしています。日本に強い憧れを抱いていたゴッホはアルル時代の1888年7月に1週間かけて描いたアルルの少女のことを、日本語の「ムスメ」の名前で呼んでいました。このためこの作品は一般的にも「ラ・ムスメ」との名で知られるようになったのです。ナショナルギャラリーにあるのはこの「ラ・ムスメ」です。

展示場「83」にあります。

ゴッホの「ラ・ムスメ」ゴッホの「ラ・ムスメ(La Mousme)」1888
ゴッホがこの言葉を知ったのはピエール・ロティの「お菊さん」を読んだからでした。ロティはその中で「ムスメ」の言葉について「Mousme(ムスメ)とは若い女の子、若い女性を意味する単語で日本語の中でも最も可愛らしい言葉の一つである。」などと説明しています。

また少女が持っている白いキョウチクトウの花は自然の生命の循環と再生に対するゴッホの思いと関係しているのではないかとの指摘もされています。

同じ展示場「83」には1889年に描かれたゴッホの「自画像」も展示されています。

ゴッホの「自画像」ゴッホの「自画像」1889
モデルを雇うお金もままならなかったゴッホは、27歳で絵を始めてから自殺で死ぬ37歳までのわずか10年の創作期間の間に36にのぼる自画像を描いたことで知られています。自画像は銅像を見ながら描いたものと見られるため、実際には左右が逆転しているとされています。

ナショナルギャラリーに展示されている自画像はサン・レミの精神病院での療養時代、人生の後期に描かれたものです。

このほかにも展示場「83」にゴッホが1890年に描いた以下の作品がありますのでお見逃しなく!

ゴッホの「Girl in White」ゴッホの「Girl in White」1890
ゴッホの「Green Wheat Field Auvers」ゴッホの「Green Wheat Field Auvers」1890
ゴッホの「Roses」ゴッホの「Roses」1890