17世紀オランダ美術


フェルメール「はかりを持つ女」「赤い帽子の少女」「手紙を書く女」

レンブランドと並ぶ17世紀のオランダ美術を代表する画家のヨハネス・フェルメールは寡作で知られ、現存する作品はわずか30数点ほどと言われています。そのうち3点がナショナルギャラリーの所蔵となっています。

フェルメールの生涯の詳細は分かっていませんが、1632年デルフトに居酒屋と宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスの下に生まれました。

1653年にカタリーナ・ボルネスと結婚して間もなくして妻の裕福な母と暮らし始めたほか、父親が亡くなった後には1655年に実家の家業を継いで、居酒屋・宿屋の経営にも乗り出しました。このほかパトロンからの支援もあったフェルメールは当時は金よりも高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンブルーを多用することができ、彼の絵に見られる鮮やかな青は、「フェルメール・ブルー」と呼ばれています。「北のモナリザ」とも呼ばれる彼の代表作「真珠の耳飾りの少女」でも青色が使われていますよね。

また聖ルカ組合に加入したフェルメールは2回もその理事に選出されており、当時画家としての評価が高かったことが伺えます。

フェルメールの「はかりを持つ女」フェルメールの「はかりを持つ女 (Woman Holding a Balance)」1664
「はかりを持つ女 」はフェルメールが1662年から1663年ごろに描いた絵画と見られ、空の天秤を持って立つ若い女性とその後ろの壁には両手を広げるキリストを描いた「最後の審判」の絵画がかけられています。この女性はフェルメールの妻カタリーナをモデルとしているとされています。

展示場「50」にあります。

フェルメールの「赤い帽子の少女」フェルメールの「赤い帽子の少女」
フェルメール作品は贋作も多く、1945年には西洋美術史上、最も有名な贋作事件のひとつ、ハンス・ファン・メーヘレンによる「エマオのキリスト」贋作事件が発覚するなどしていますが、ナショナルギャラリーにある「赤い帽子の少女」は他のフェルメール作品に比べてサイズが小さく、カンヴァスでなく板に描かれているなど異色なため、フェルメールの真作であるかどうか疑問視する意見もあります。この「赤い帽子の少女」はエックス線写真により、実は男性の肖像を描いた別の絵を塗りつぶして描かれたことがわかっています。

フェルメールの「手紙を書く女」フェルメールの「手紙を書く女」
「手紙を書く女」はフェルメールが1665年〜1666年頃に描いた絵画とされています。

その後のフェルメールですが、1670年代になると、第3次英蘭戦争が勃発しオランダ経済も低迷。作品も全く売れなくなり大打撃を受けました。

フェルメールにはなんと15人の子供が生まれるなど(うち4人は夭折)、大家族だったため、家族を養うために奔走しましたが首が回らなくなり、借金を残したまま42〜43歳でこの世を去っています。死因は不明ですがその後自己破産してしまった妻のカタリーナが裁判所に出した嘆願書の中で「夫は死ぬ数日前からほとんど口を聞かなくなり、話したかと思うと急に絶叫していました。」と綴っていて、専門家の間では極度の疲労と緊張の連続からくる心臓発作ではなかったかとの推測も出ているそうです。

ちなみにフェルメールの作品は数が少なくその希少性から盗難も多発していますが、1990年にボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館で発生した当時で被害総額2億~3億ドルともされる盗難事件で盗まれたフェルメールの代表作「合奏」は現在も未発見のままとなっています。

レンブラント自画像

17世紀のオランダを代表する画家、レンブラント・ハルメンス・ファン・レインはスポットライトを当てたような強い光による明瞭な明暗対比などその巧みな光の捉え方から「光の魔術師」などとも呼ばれています。

1606年、レイデンで製粉業を営む中流階級の家の8番目の子供として生まれたレンブラントは若い頃から肖像画家として成功しました。1634年には裕福な美術商の娘サスキアと結婚以後は大規模な工房を構えて多くの弟子を抱えるなど富と名声を欲しいままにしていました。

しかし4人の子供のうち3人が生後わずか1〜2ヶ月で亡くなり、最初の妻サスキアもわずか29歳の若さで亡くなってから生活は暗転しました。その後家政婦として雇った未亡人ヘールトヘと愛人関係になった挙げ句、婚約不履行で裁判に訴えられたほか、資産運用の失敗、1652年から始まった英蘭戦争による経済不況の影響、そしてそもそもの浪費癖から財政的苦難にあえぎ、結局自己破産するまでに到りました。

レンブラント「自画像」 レンブラント「自画像 (Self-Portrait)1659」

ナショナルギャラリーにある「自画像」は、無一文になった頃の1659年に描かれたものです。家なども競売にかけられ、翌年の1660年にレンブラントは邸宅去って貧民街に移り住んでいます。

展示場「48」にあります。

画家生活の中で自画像をこれほど多く描いた画家はいないと言われるレンブラントですが、この頃はどんな思いで自らの肖像を描いたのでしょうか。深い皺が刻まれ、人生の栄光と転落を味わった人間の苦悩が見て取れるようです。

裁判を起こされるきっかけにもなった、次に雇った若い家政婦ヘンドリッキエとは事実上結婚状態にあったとされ、娘ももうけていますがそのヘンドリッキエは1663年に38歳で死去。最初の妻サスキアとの間の息子ティトゥスも1668年に急死するなど家族の不幸が続いたレンブラントはその翌年の1689年には生活が好転することもないまま63歳でこの世を去りました。

波瀾万丈の人生を送ったレンブラントですが、最後の最後まで意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残しているのは皆さんご存知の通りです。歴史に「もしも」はないですが、最初の妻が早くに亡くなっていなかったらレンブラントの人生や作品に大きな違いがあっただろうことは間違いありません。でもそれが画家としてはどうだったかは誰にもわかりませんね。